全くなんだって言うんだ。鼻息を荒く休憩室を白波百合に追い出された山吹薫は、高橋美奈の隣で病室へと向かう。かつての救急科の先輩で、超急性期の作業療法士だった彼女の義母が入院した。それに合わせてまた彼女もこの病院を訪れたと言う訳だが、それで何か白波達と一悶着有ったらしい。
「まぁまぁ薫ちゃん。そんな顔しないしないー楽しかったんだから。」
そう高橋は意気揚々とそう答える。ほんの数十分前とは表情はまるで違う。元の明るさに戻ったことは良いことだけど、自分がなぜ怒られなきゃならんのだと。山吹は腕を組む。
「うちの後輩が失礼・・・と言う訳ではなさそうですが、まぁあんまり意地悪しないで下さいよ」
「別に意地悪だなんてしてないわ!そうね、ちょっと悪戯しただけかなー。薫ちゃん達と働いていた時にはあんなにキャピキャピした空気なんてなかったものねー。」
まだ古めかしい言葉使いを・・・と言いかけて山吹は口を噤む。彼女に対してこの手の発言は、虎の尾っぽを不用意に踏むものだと言うことは、新人時代に嫌と言うほど経験している。
「それにしても、お義母様とはいえ、薫ちゃんにお世話になるだなんてね。あの時は考えもしなかったなー」
両手を後ろに組んで楽しげに肩を揺らす高橋の声色は何処か過去を思い出しているかの様に、淡く病院の空気の中に消えていく。
「あの忙しない病棟から随分と時間が経ちましたからね。」
止むことを知らない救急車のサイレン、日々変わる業務と患者の病態に振り回されながら駆け回ったその日々。それはもう遠い昔だと山吹は思う。
「それに薫ちゃん。ちゃんとあの子達に色々指導しているみたいで感心感心!まだまだ可愛らしい所はあるけれどちゃんとしたセラピストになってきてるじゃない。」
「そんなまだまだ勉強不足ですよ。まぁ僕もまたそうですけどね。どちらかと言えば僕の方が振り回されていますよ。」
それくらいがちょうど良いのよ。と高橋は楽しそうに笑みを浮かべる。そしてその僕を振り回す彼女達を更に振り回してきたんだなと容易に想像はついたけれど、山吹はそれは口には出さない事にした。
「でもやっぱり・・・白波ちゃんの名前を呼ぶ事には躊躇しちゃうわね。私らしくも無いけれど、やっぱりびっくりよね。」
「貴女にしては珍しい言葉ですね。まぁそれは正直認めざるを得ませんが。」
かつての僕たちの主任、その知識と行動力の塊の様な、今もなお追いつけるとは思えないその姿は、ユリという言葉の中に鮮烈に存在している。それはきっと彼女の元で働いていた誰もが思う事だろう。良くも悪くも・・・
「私たちは結局、優璃が何処かに行ってしまったからバラバラになったもんでしょ?居なくなってしまってから何となく考えていたけれど、私たちは優璃を頼りすぎちゃったのかもね。」
それは否めないと山吹は思う。重要な一本の柱を無くした僕たちの病棟は代わりの管理者こそ来たが、水面に浮かんだ薄い紙切れの様に、散り散りと分解して泡と共に消えた。組織の崩壊とはこんなにあっけないものかとその時は思った。
「・・・ねぇ本当に薫ちゃんも優璃から何も聞いていないの?」
その高橋の言葉に山吹は首を横に振る
「それを言うなら、僕なんかに言うくらいなら付き合いの長い美奈さんに言うでしょう?」
「きっとそんなことはないわね。あの子はそう言う子だもの。誰よりも患者様や自分の身の回りの人は大切に想う癖に自分の事はこれっぽっちも大切に思わない。薫ちゃんと同じでね。」
高橋は振り返って山吹の目を真っ直ぐと視る。うっすらと浮かべられた笑みが、その心まで微笑んでいない事は明確だ。それこそ魔女の呪いの様なその言葉に山吹もまた足を止める。
「僕はそんな事はありませんよ。何処かに消える時にはちゃんと伝えます。」
残された者がそれに囚われて何処にも行けなくならない様に。
その言葉と共に浮かんだ白波の姿を山吹は首を一度振って振り払う。
「あら?いざその時が来たら貴方にはそれが出来るかしら?誰かを自分より1番に大切に想う事が、決して本当に相手を想う事とは少し違うの。そこら辺はまだまだね。いつか白波ちゃんに教えてもらいなさいな。」
「何でアイツの名前が出てくるんですか?」
さぁーてね。と高橋は再び病室へと向かい言葉を濁す。内海青葉だってそうだ。肝心な言葉の示唆だけしておいてその答えを考える事は僕に委ねる。どれほど悩むかを知っておいてだ。
「ともかく、まぁまたアイツらに何か教えてあげてください。同性の方から伝えやすい事もあるでしょう。」
「じゃぁ何か今度お酒でもおごってねー。進藤ちゃんにもそう伝えといてー」
高橋は病室へと向かいながら手を振った。これも新人の頃に学んだのだが彼女はお酒に関してはザルというかその枠しかないのだ。奢るなぞお金がいくらあっても足りない上に、酔うとその可憐な姿は失われ、僕と進藤は物理的にも心情的にも振り回される。
進藤にはそう言っておきますねー。とだけ答えて、山吹もまた休憩室へと踵を返す。
この日々がいつまでも続くだなんて考えてはいけない。
どんなにその日々が続く事を望んだとしてもそれは決して訪れない。
それもまた新人と呼ばれた時代に嫌と言うほどに学んだのだ。
白波にはそんな風に歩んでほしくない。
たとえ彼女がそう望んでいたとしても・・・だ。
【〜目次〜】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【総集編!!】
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
【時間がない人にお勧めのブログまとめシリーズ!】
【ウチ⭐︎セラ! 〜いまさら聞けないリハビリの話〜】
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